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展覧会・イベント
2005-10-08
永見眞一 ジョージ・ナカシマを語る 第1回 前編
3回シリーズ 第1回 「ジョージ・ナカシマ 人と仕事」 前編
2005年2月22日(火)

稲生: 私は進行を務めさせていただく、プロデューサーの稲生と申します。よろしくお願いいたします。本日は、3回シリーズの第1回目、講師は桜製作所会長・永見眞一でございます。桜製作所を創立して56年。日本の洋家具づくりの歴史そのまま、半世紀以上にわたって家具を作り続けて参りましたし、ジョージ・ナカシマとは、1960年代初頭の来日以来、亡くなるまで一緒に仕事をしてきた仲でございます。ジョージ・ナカシマの仕事の仕方とか、ものの考え方、デザインの背景などを本当に肌で感じて皆様にお話できるとしたら、多分、永見眞一が、ただ一人の人だと言えると思います。そんな視点で聞いて頂ければ幸いでございます。
永見: ご紹介いただきました永見です。ナカシマさんのことを知っている日本での数少ない一人だと言われれば、それは間違いないことでございます。私はしゃべるプロではないので、この2-3ヶ月、ナカシマさんの本などを一生懸命読み返しておりました。そして、ナカシマさんのことを振り返ってみますと、今まで気付かなかったり、忘れていたりしたことが、思い出されて、もういっぺん、その素晴らしさをかみしめることができました。
ナカシマの魅力
アメリカで、ナカシマさんに仕事を依頼した沢山の方たち、その中のお一人に、副大統領だったネルソン・ロックフェラーさんがいます。お宅の家具を全部作らせていただいたそうで、当時はアメリカでも珍しかったジェットヘリコプターでニューヨークから迎えに来てくれて、それで敷地を見に行ったそうです。また、ノーベル生理学・医学賞を受賞したジョージ・ウォールドさんが広島の原爆記念式に来日したときに、ナカシマさんから、日本に行ったら永見さんのところへ寄るようにと言われたからと訪ねておいでになりました。このように、アメリカにはナカシマさんを愛しておられる方がたくさんいらっしゃいます。
私も日本でナカシマさんの仕事をしておりまして、日本にもナカシマさんを好きな人はすごくいると思います。今日、お見えになっている方々はその一部の方だと思います。どうしてナカシマさんの作品がそんなに好かれるのかなぁと考えてみますと、ひとつにはそのお人柄と、出生、生い立ちにあるのではないかと思います。もうひとつは、その仕事の良さによって生まれた美しい形にあると思います。
今日はナカシマさんの生い立ちと人となりをお話して、次回は、ひとつひとつの作品と仕事の細部にわたっての、私の知る限りのお話をさせて頂きたいと思います。
生い立ち
ナカシマさんは1905年にお生まれになって、1990年に亡くなりましたから、ちょうど20世紀を生きたわけです。お父様は鳥取の士族の生まれで、鳥取に親類の方がいらっしゃいました。一度、ナカシマさんとご一緒して訪ねていったことがあります。お母様は明治天皇の皇后の官女の付き人をなさっていた方です。
お父様は、慶応義塾を出られたという話を聞いておりますので、そこまで学問のある方がどうしてアメリカへ行かれたのか、明治と言う時代のことを考えますと、恐らく西洋の文化をどうしても見てみたいという、止むにやまれぬ気持ちで行かれたんでないかと想像します。その息子さんですから、ナカシマさんも、ちょっと放浪癖があったりして、ヨーロッパ、そして世界一周もなさったわけです。少年時代はボーイスカウトに入っていて、森や山へ行くことが大好きだったと伺っておりました。
若き日の放浪
シアトルのワシントン大学で建築を勉強なさって、その後、マサチューセッツ工科大学の大学院でも勉強なさいました。その間に奨学金をもらって、パリへも行かれたということも伺っております。卒業してからニューヨークで7年間位お仕事をなさって、お金を貯めて車を買っておられました。
ナカシマさんが日本へ来られたのは1964年ですけど、その頃は日本でもヒッピー族という、仕事をしないでブラブラしている若い人がたくさんいたのですが、ナカシマさんは「私もヒッピーの一人だったんですよ」と言っておられました。どうして仕事やめてまで日本へ来たのですかと言ったら、もっと世の中を見てみたかったということでした。その頃、ポンドが下落をしていたので、車を売ったら丁度、英国の汽船だったら世界一周の二等切符が手に入るので、それで手始めにパリに行かれたそうです。
パリは何と言っても世界の文化の中心、その頃は特にそうであったのではないかと思います。奨学金をもらって半年くらいは学校へ通ったこともあったと思いますが、パリでは生活費も十分ではありませんから、すごく切り詰めた生活をなさっていたようです。
パリのアルバイト生活
今回のためにナカシマさんの本を読み返したので、皆さんご存知かとは思いますが、ちょっとご紹介いたします。パリでいい仕事がみつかったそうです。どういう仕事かというと、パリで親しくなった亡命ロシア人の作曲家のイアンさんという人が映画を観に行って、その音楽を覚えて帰ってくる。ナカシマさんの主な役割は五線譜を引くことでした。イアンさんが、その五線譜に楽譜を書いて、石版印刷のような方法で印刷して、出版社に持って行くと買って貰えたのだそうです。
それで蓄えが多少できて、自転車を買って、それに乗って、フランスの郊外を回られたそうです。ナカシマさんにとっては、その時代の空気はあまり馴染めたものではなくて、古い13世紀とか15世紀の建物こそ素晴らしいということを感じて、パリもそんなに長くおるところではないと思われて、それからイギリスを回って、日本へ帰ろうということになったそうです。
軽井沢 セントポール教会
稲生: 教会の話は?
永見: そうね。そろそろ教会の話に行かなくてはなりませんね。その後、インドを回って、日本へ帰ってこられたわけです。船がインドに着岸していた間に、インドという国をちらりと見たことで、それが後年、ナカシマさんがインドでお仕事なさったことにつながったのではないかと思うわけです。
日本に帰って、遊んでいるわけにもいきませんので、お父さんの友人が、その頃、日本に来られていたアントニン・レイモンドさんという、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルの元の建物を建てられた時に一緒に来られた建築設計家の事務所に仕事を見つけてくれました。そこには、東京文化会館や神奈川文化会館の設計をなさった前川國男さんとか、後にロックフェラーさんの家を設計なさった吉村順三さんなどがいらっしゃって、特に吉村順三さんとはすごく親しくなさっていたらしくて、吉村順三さんのおかげで京都や奈良へたびたび連れて行ってもらって、日本の神社仏閣、京都の古い町並みなどを見たのはとても愉しかったですよ、と言っておられました。
ナカシマさんがレイモンドさんの所で設計なさったのが、軽井沢のセントポール教会です。これは現代のもので、そのころからは随分感じが変わっております。
ナカシマ・デザイン「教会の椅子」
もとはナカシマさんの椅子が150脚くらい並んでおりました。私が訪ねた時、その椅子がまだ2脚ほど残っておりましたので、神父さんにお願いして、代わりの椅子を差し上げて、それをいただいて帰りました。2脚ですから、代わりの椅子も2脚差し上げたんですが、後から考えると、えらい申し訳ないことしたなと思いました。その椅子が頂けるのなら20脚くらい代わりの椅子を差し上げればよかったなって。
この椅子は、今度、持ってきて、皆さんに見ていただきますけど、ナカシマさんがデザインを考えて、大工さんとともに作ったといわれています。丸太ばっかりで出来ているので、丸太と丸太をあわせるのに、「ひたる」を直線にあわせて始末し、ちょうど両方から来ているところにほぞを上に抜いて、こちら側は下に抜いて、ちょっとずらしてある。そういう細かいことができています。
インドへ
軽井沢の教会を造った後、レイモンドさんの事務所でインドに仕事があって、誰か行かなきゃいけないんですけど、ナカシマさんはご自分から申し出たそうです。それが、後々、ナカシマさんの精神的な拠り所となった印象深い所であったのだと思います。
それはポンディシェリという所で、アシュラムという同じ考えを持つ人が集まって、共同生活をしながら修行をする場所の建物を、レイモンドさんが設計したものをナカシマさんが現地で指導しながら、造るということをしておりました。そこにシュリ・アウロビンドさんという、聖人みたいな方がおられて、その人のもとで、すごい精神性を得られたのだと思います。
一時は、一生そこにおろうかなと考えたこともあったようなのですが、やっぱり色々考えて、最終的には2年間インドにおられて、東京へ帰ってこられました。帰ってきた頃、前川さんが新しい事務所を作られて、3年位そこを手伝われたそうです。丁度その頃、香川県庁やその他すごい建築をなされた丹下健三さんが東大の建築科を出て、新人さんとして入ってこられたらしいです。
帰国・結婚・強制収容所
その後、だんだん戦争が激しくなってきまして、どうしてもアメリカへ帰らないといかんことになりました。ナカシマさんが帰る頃には日本からストレートに太平洋を渡っていくことができませんで、上海に渡って、それから乗り継いで、帰られるというようなことでございました。
シアトルでマリオンさんと結婚して、家具の会社を作っておられたのですが、アメリカ国籍があるナカシマさんでも日本出身であるというために、アイダホの強制収容所に収容されました。ことあるごとに、あんな屈辱は二度と味わいたくないと言っておられました。飢えない程度には食べさしてくれるのでが、何にもすることがないことが人間にとってこんなに辛いことだとは気がつかなかったと言っておられました。
日本の大工の技と道具
ただ幸いなことに、そこで若い日本の大工さんに巡り会いまして、その大工さんと薪にする木切れを拾ってきては、椅子を作ったり、ベンチを作ったり、テーブルまで作って、暇をつぶしておられたようです。ナカシマさんの、その後の仕事のもとになったのは、その大工さんに巡り会ったおかげだと、常々言っておられました。
その大工さんが色々日本の道具を持っておられて、ナカシマさんは、それまでアメリカの道具しか知らなかったので、鋸(のこぎり)ひとつでも何か切れ味が違うなと思ったそうです。鋸にはアサリといって左右に少し広がって歯がついておりますけれども、その谷のところにちょっとした切れ込みがあるので、そのために弾いても鋸くずがつまらないとか、鉋(かんな)は水砥石というので研ぐのですが、その砥石の研ぎ方ひとつで全然だめになってしまうというようなことを教えてもらったらしいです。
鉋の使い勝手は人生と同じ
鉋の話が出たついでに、最近聞いて面白いなと思った話をひとつします。岡山の無形文化財の小川さんという伝統工芸の箱など立派な指物のお仕事をなさっている方が、ひょっこりと来られて、色々お話をしている時に鉋の話が出ました。鉋は新しいうちはどんな名人がうった鉋でも、てんで使い物にならないのですけど、研いで研いで、三分の一くらい減ったところで、初めて味が出て使いやすくなって、そうかといって、三分の一を超えるとまた、味がだんだんと落ちていって、最後に使えなくなると。ちょうど人間の一生と同じなのですよと言われておりました。それなら、最初に鉋を三分の一のけて使うたらいいのにと言うと、そんなことしたら話にならん、と笑われたわけでございます。
日本の道具というのは、そのようにすごく奥行の深いもので、その道具を上手に使いこなして行くことは、ナカシマさんにとっては、後々、すごく役に立ったのだと思われます。
2005年2月22日(火)

稲生: 私は進行を務めさせていただく、プロデューサーの稲生と申します。よろしくお願いいたします。本日は、3回シリーズの第1回目、講師は桜製作所会長・永見眞一でございます。桜製作所を創立して56年。日本の洋家具づくりの歴史そのまま、半世紀以上にわたって家具を作り続けて参りましたし、ジョージ・ナカシマとは、1960年代初頭の来日以来、亡くなるまで一緒に仕事をしてきた仲でございます。ジョージ・ナカシマの仕事の仕方とか、ものの考え方、デザインの背景などを本当に肌で感じて皆様にお話できるとしたら、多分、永見眞一が、ただ一人の人だと言えると思います。そんな視点で聞いて頂ければ幸いでございます。
永見: ご紹介いただきました永見です。ナカシマさんのことを知っている日本での数少ない一人だと言われれば、それは間違いないことでございます。私はしゃべるプロではないので、この2-3ヶ月、ナカシマさんの本などを一生懸命読み返しておりました。そして、ナカシマさんのことを振り返ってみますと、今まで気付かなかったり、忘れていたりしたことが、思い出されて、もういっぺん、その素晴らしさをかみしめることができました。
ナカシマの魅力
アメリカで、ナカシマさんに仕事を依頼した沢山の方たち、その中のお一人に、副大統領だったネルソン・ロックフェラーさんがいます。お宅の家具を全部作らせていただいたそうで、当時はアメリカでも珍しかったジェットヘリコプターでニューヨークから迎えに来てくれて、それで敷地を見に行ったそうです。また、ノーベル生理学・医学賞を受賞したジョージ・ウォールドさんが広島の原爆記念式に来日したときに、ナカシマさんから、日本に行ったら永見さんのところへ寄るようにと言われたからと訪ねておいでになりました。このように、アメリカにはナカシマさんを愛しておられる方がたくさんいらっしゃいます。
私も日本でナカシマさんの仕事をしておりまして、日本にもナカシマさんを好きな人はすごくいると思います。今日、お見えになっている方々はその一部の方だと思います。どうしてナカシマさんの作品がそんなに好かれるのかなぁと考えてみますと、ひとつにはそのお人柄と、出生、生い立ちにあるのではないかと思います。もうひとつは、その仕事の良さによって生まれた美しい形にあると思います。
今日はナカシマさんの生い立ちと人となりをお話して、次回は、ひとつひとつの作品と仕事の細部にわたっての、私の知る限りのお話をさせて頂きたいと思います。
生い立ち
ナカシマさんは1905年にお生まれになって、1990年に亡くなりましたから、ちょうど20世紀を生きたわけです。お父様は鳥取の士族の生まれで、鳥取に親類の方がいらっしゃいました。一度、ナカシマさんとご一緒して訪ねていったことがあります。お母様は明治天皇の皇后の官女の付き人をなさっていた方です。
お父様は、慶応義塾を出られたという話を聞いておりますので、そこまで学問のある方がどうしてアメリカへ行かれたのか、明治と言う時代のことを考えますと、恐らく西洋の文化をどうしても見てみたいという、止むにやまれぬ気持ちで行かれたんでないかと想像します。その息子さんですから、ナカシマさんも、ちょっと放浪癖があったりして、ヨーロッパ、そして世界一周もなさったわけです。少年時代はボーイスカウトに入っていて、森や山へ行くことが大好きだったと伺っておりました。
若き日の放浪
シアトルのワシントン大学で建築を勉強なさって、その後、マサチューセッツ工科大学の大学院でも勉強なさいました。その間に奨学金をもらって、パリへも行かれたということも伺っております。卒業してからニューヨークで7年間位お仕事をなさって、お金を貯めて車を買っておられました。
ナカシマさんが日本へ来られたのは1964年ですけど、その頃は日本でもヒッピー族という、仕事をしないでブラブラしている若い人がたくさんいたのですが、ナカシマさんは「私もヒッピーの一人だったんですよ」と言っておられました。どうして仕事やめてまで日本へ来たのですかと言ったら、もっと世の中を見てみたかったということでした。その頃、ポンドが下落をしていたので、車を売ったら丁度、英国の汽船だったら世界一周の二等切符が手に入るので、それで手始めにパリに行かれたそうです。
パリは何と言っても世界の文化の中心、その頃は特にそうであったのではないかと思います。奨学金をもらって半年くらいは学校へ通ったこともあったと思いますが、パリでは生活費も十分ではありませんから、すごく切り詰めた生活をなさっていたようです。
パリのアルバイト生活
今回のためにナカシマさんの本を読み返したので、皆さんご存知かとは思いますが、ちょっとご紹介いたします。パリでいい仕事がみつかったそうです。どういう仕事かというと、パリで親しくなった亡命ロシア人の作曲家のイアンさんという人が映画を観に行って、その音楽を覚えて帰ってくる。ナカシマさんの主な役割は五線譜を引くことでした。イアンさんが、その五線譜に楽譜を書いて、石版印刷のような方法で印刷して、出版社に持って行くと買って貰えたのだそうです。
それで蓄えが多少できて、自転車を買って、それに乗って、フランスの郊外を回られたそうです。ナカシマさんにとっては、その時代の空気はあまり馴染めたものではなくて、古い13世紀とか15世紀の建物こそ素晴らしいということを感じて、パリもそんなに長くおるところではないと思われて、それからイギリスを回って、日本へ帰ろうということになったそうです。
軽井沢 セントポール教会
稲生: 教会の話は?
永見: そうね。そろそろ教会の話に行かなくてはなりませんね。その後、インドを回って、日本へ帰ってこられたわけです。船がインドに着岸していた間に、インドという国をちらりと見たことで、それが後年、ナカシマさんがインドでお仕事なさったことにつながったのではないかと思うわけです。

ナカシマさんがレイモンドさんの所で設計なさったのが、軽井沢のセントポール教会です。これは現代のもので、そのころからは随分感じが変わっております。
ナカシマ・デザイン「教会の椅子」

この椅子は、今度、持ってきて、皆さんに見ていただきますけど、ナカシマさんがデザインを考えて、大工さんとともに作ったといわれています。丸太ばっかりで出来ているので、丸太と丸太をあわせるのに、「ひたる」を直線にあわせて始末し、ちょうど両方から来ているところにほぞを上に抜いて、こちら側は下に抜いて、ちょっとずらしてある。そういう細かいことができています。
インドへ
軽井沢の教会を造った後、レイモンドさんの事務所でインドに仕事があって、誰か行かなきゃいけないんですけど、ナカシマさんはご自分から申し出たそうです。それが、後々、ナカシマさんの精神的な拠り所となった印象深い所であったのだと思います。
それはポンディシェリという所で、アシュラムという同じ考えを持つ人が集まって、共同生活をしながら修行をする場所の建物を、レイモンドさんが設計したものをナカシマさんが現地で指導しながら、造るということをしておりました。そこにシュリ・アウロビンドさんという、聖人みたいな方がおられて、その人のもとで、すごい精神性を得られたのだと思います。
一時は、一生そこにおろうかなと考えたこともあったようなのですが、やっぱり色々考えて、最終的には2年間インドにおられて、東京へ帰ってこられました。帰ってきた頃、前川さんが新しい事務所を作られて、3年位そこを手伝われたそうです。丁度その頃、香川県庁やその他すごい建築をなされた丹下健三さんが東大の建築科を出て、新人さんとして入ってこられたらしいです。
帰国・結婚・強制収容所
その後、だんだん戦争が激しくなってきまして、どうしてもアメリカへ帰らないといかんことになりました。ナカシマさんが帰る頃には日本からストレートに太平洋を渡っていくことができませんで、上海に渡って、それから乗り継いで、帰られるというようなことでございました。
シアトルでマリオンさんと結婚して、家具の会社を作っておられたのですが、アメリカ国籍があるナカシマさんでも日本出身であるというために、アイダホの強制収容所に収容されました。ことあるごとに、あんな屈辱は二度と味わいたくないと言っておられました。飢えない程度には食べさしてくれるのでが、何にもすることがないことが人間にとってこんなに辛いことだとは気がつかなかったと言っておられました。
日本の大工の技と道具
ただ幸いなことに、そこで若い日本の大工さんに巡り会いまして、その大工さんと薪にする木切れを拾ってきては、椅子を作ったり、ベンチを作ったり、テーブルまで作って、暇をつぶしておられたようです。ナカシマさんの、その後の仕事のもとになったのは、その大工さんに巡り会ったおかげだと、常々言っておられました。
その大工さんが色々日本の道具を持っておられて、ナカシマさんは、それまでアメリカの道具しか知らなかったので、鋸(のこぎり)ひとつでも何か切れ味が違うなと思ったそうです。鋸にはアサリといって左右に少し広がって歯がついておりますけれども、その谷のところにちょっとした切れ込みがあるので、そのために弾いても鋸くずがつまらないとか、鉋(かんな)は水砥石というので研ぐのですが、その砥石の研ぎ方ひとつで全然だめになってしまうというようなことを教えてもらったらしいです。
鉋の使い勝手は人生と同じ
鉋の話が出たついでに、最近聞いて面白いなと思った話をひとつします。岡山の無形文化財の小川さんという伝統工芸の箱など立派な指物のお仕事をなさっている方が、ひょっこりと来られて、色々お話をしている時に鉋の話が出ました。鉋は新しいうちはどんな名人がうった鉋でも、てんで使い物にならないのですけど、研いで研いで、三分の一くらい減ったところで、初めて味が出て使いやすくなって、そうかといって、三分の一を超えるとまた、味がだんだんと落ちていって、最後に使えなくなると。ちょうど人間の一生と同じなのですよと言われておりました。それなら、最初に鉋を三分の一のけて使うたらいいのにと言うと、そんなことしたら話にならん、と笑われたわけでございます。
日本の道具というのは、そのようにすごく奥行の深いもので、その道具を上手に使いこなして行くことは、ナカシマさんにとっては、後々、すごく役に立ったのだと思われます。

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